子どものカラダは、どこにいたって、もっともっと開放的になれるはず
ひとの赤ちゃんは、二本あしで初めて立ちあがろうとするときでさえ、
カラダのどこそこに力を入れて、

あ~して、
こぉして~・・・
なんていう意識も感覚もないところで、
カラダにとって、一番、自然な状態でいられるような場所に
重心をもってくるみたいなことをやっているのだそうです。
(これは、ちょっと東洋医学的な診方です)
最近の赤ちゃんは、どんどんカラダが大きくなっています。
元気があって、ミルクもいっぱい飲んで、ますます大きくなるけど、
どんどん寝返りや、ズリバイをする時期が、平均して遅くなって
いっています。
さらに、
つかまり立ちしてから、何にも頼らずに歩きだすまでに、とても
長い時間を必要としますし、
なにより、歩きだしてからが、とても転びやすくなったようにも
思います。
ひとのカラダは、頭のてっぺんから足先までを、その
細部にいたるまで、
すべて一枚の皮でおおっています。
さらに、200個もの骨が、微妙なバランスによって
つながりあって、
ひとつのカラダをつくっています。
あきらかに、そんな複雑なカラダをもてあましている
そんな、お子さんが増えました。
赤ちゃんが、カラダにとって、一番自然な状態で立つためには、
立ち上がるまでに、ハイハイを十分にして、脳とカラダが、ひとつ
のまとまりとしてつながりあった
バランス感覚ってものが育てられなくてはなりません。
そのバランス感覚がない子どものカラダは
運動をするときに、
負担が一方にかたよるので、
かたよる負担に都合のいいように、カラダが
カタくなったり、
つかいやすい筋肉だけが、一方的に使われて、
その使わない筋肉は、
ますます使われなくなります。
そのぶん、発育もどんどん遅れていきます。
そんな筋肉の力の差が、つみあげられた骨を、そして
カラダをゆがませてしまいます。
そうだとするなら、ハイハイをあまりしなかった子どもに
とって、救いはないのでしょうか?
ひとは、生活する間に、
『自分』を、カラダという枠に閉じこめていってしまいます。
可能なかぎり、のびやか~にカラダを動かす
ことをしない
くり返しの生活の中で、
ここまでしか、自分のカラダは動かないもの
なんだ~と
本人も気づかないうちに思い込んでいたり、
不自然に、カラダをゆがませて立ったり歩いたり
しているうちに、
この姿勢が、当たり前の姿なんだ~と記憶に
きざみ、
どんどん、小さく、せまく、カタいカラダというカラの中に
自分を押し込めていってしまうのです。
赤ちゃんは、
生まれたときは、そのようなカラダに対する記憶が
まっさらな状態にいます。
ここまでしか曲げられない、という思い込みがない
ので、大人とくらべたら、
ありえないほど、ゴムのように、くにゃくにゃと、
カラダは曲がり、
とても伸びやかに動きます。
カラダは、「自分」を押し込む入れ物などでは
なくて、
この世に生まれでた、ひとつの意識が、
カラダとともに、ただ、ただ、そこにあるだけです。
子どもたちが、「自分」と、「自分ではない
他者」との、
境界線をつかみとったときでも、
自分という意識が、カラダと一緒にあり
つづけることができれば、
子どもは、都会のど真ん中にいたって、きっと、力づよく、
のびやかに、
カラダを動かして、生きていくことができるのだと、個人
的につよく信じています。
そのために、大人はなにができるだろう。

