保育を仕事にした対応義務者(保育所職員や幼稚園職員、ベビーシッターや保育ママ等)および、保育事業を利用する方々を対象とした保育現場で有効なリスクマネジメントや応急救護(クライシスマネジメント)に関する研修、教育事業を行なっています。
そのほか、保育園看護師の方や、傷病児童の応急処置プログラムの普及を目的としたセミナーなど、保育現場の安全管理についてファシリテーションする側のみなさんに対する支援、および情報提供にも力を入れています。
保育安全のかたち~保育応急救護協会 https://child-care.ne.jp/
高校の時に男性でも保育ができることを知って、幼児教育への興味から幼稚園教諭を目指しました。食べてはいけないからヤメなさいとの反対を押し切ってまで就職した幼稚園は、結局は辞めたものの、自らの保育観を大きく揺さぶる出会いをもたらしました。
「ママ~、ママ~」夜の八時になろうかというとき、その少女は、小学校五年生のお姉ちゃんに手を引かれ、泣きながら少女が通う幼稚園へとやってきました。お姉ちゃんの手を離すまいと懸命に握りながら、やっと辿り着いた様子の少女。
その手に握られた先の姉の目にも、泣くまいと堪える涙が園庭の外灯に照らされて光っていました。
その少女は、五歳になってから年長組に入ってきました。いつも、どこか遠いところを見つめる目と、お姉ちゃんからのお下がりと思われる少し薄汚れた服を着て、クラスの先生が声をかけても、子どもたちの輪の中には入ろうとはしない子どもでした。
入園後しばらくして、クラス担任の努力や、クラスの子どもたちが少しずつ彼女を受け入れ始めたことで、少女の顔には可愛らしい笑顔と、楽しそうに遊ぶ姿が頻繁に見られるようになりましたが、彼女に暗い影を落とす原因は、新しい園生活に慣れないこと以上に別にあるように思われました。
朝、幼稚園のスクールバスで家まで少女をお迎えにいくと、一向に外に出てきません。家の玄関まで出迎えにいけば、母親が、「まだ用意ができていないから」と言います。あとから連れていくと言うので園で待っていると、結局その日は無断でお休みをします。
時には、突然、訳もなくお迎えにきて、強引に連れて帰ることもありました。どうやら、小学校でも、長女に対して同じようなことが行われているということでした。それは昼間のことだけではありません。
幼稚園に一つ明かりの灯る職員室で、「おかあさんが出ていっちゃった~」という長女の、涙にかれた声の電話を受けて、残業していた職員総出で母親を探しに出たこともありました。母親はといえば、泥酔した父親と夫婦喧嘩をして、子どもを置いて家を衝動的に飛び出したものの、家に帰るに帰れず、町内をウロウロとしていたところを発見されました。
今となっては詳細を忘れましたが、この姉妹を、私の独り住まいの狭いアパートに一晩宿泊させたこともあります。
姉の方は、小学校五年生の女の子らしく、異性である私に対して、緊張する様子を見せながらも少しずつ打ち解け、学校のことを楽しそうに話してくれました。お姉ちゃんと一緒に先生の家にお泊りできる特別な日だと、無邪気に喜ぶ妹を、私に代わって、やさしく面倒をみてくれてもいました。
妹が安らかに眠るのを見届けて、安心したかのように眠ったその長女の寝顔は、今も目に焼きついています。
「こないでー!」。
それは、まるで玩具を取られまいと必死になる、小さな子どもの姿のようでした。
大好きな両親の喧嘩する姿があまりにも恐くて、とうとうその夜、家を飛び出した長女と少女の二人姉妹。たぶん、子どもの足、それも泣きじゃくる妹を連れ立ってでは、幼稚園まで一時間は掛かったであろうと思われます。急ぎ姉妹の家まで車を走らせました。
突如間に入った我々に驚いた母親は、何かから我が身を守ろうとするかのごとく、台所から悪鬼のごとく包丁を取りかざすと、私の喉元に刃先を突きつけ、何かを叫びました。それは、ほんの数分のことであったのかもしれません。
私にとっては、背中を流れる冷や汗と共に、ゆっくりと長い長い時間が過ぎました。
初めて中に飛び込んだ姉妹の家の中は、薄暗く、いつ取り込んだのか判断のつかないような洗濯物と、押入れに長く片された形跡のない黄ばんだ布団を中心にして、思わず顔をしかめるほど雑然としたものでした。
説得をしながらも、まるで目の前の子どもから無理に玩具を取り上げようとでもしているかのような自分に気づいた時、恐れは通り越し、私は、脅えるひとりの女の子と向き合っていたかのようでした。
その翌日、児童相談所の相談員が幼稚園に事情を訊きにやってきました。幼稚園においては、これ以上この家族に関わりを持たないことが決められた、その数日後の日曜日の朝のことでした。
玄関のチャイムが鳴り、「せんせ~」と、あの姉妹の呼ぶ声がします。私の家には、あの姉妹が泊まった日以来、母親が何か困ったことがあると、大抵朝から夕方まで姉妹の二人を預けに連れてくるようになっていました。
私は玄関のドアノブを汗ばむ手で握りしめ、ドアを叩く音と、「せんせ~」と呼ぶ声に、どうしていいかすら判りませんでした。
私は息を殺し、親子が諦めて帰っていくまでじっと佇むほかありませんでした。
それから2年後、私の後悔は消えぬまま、「先生」と呼ばれた場所を去ることにしました。
今なら違う対応ができただろうかと考えることがあります。あのときの自分にアドバイスしてやれることがあるだろうかと。
今もあの親子との出来事を思い出すと、これからも保育者でありつづけようという思いを強くしてくれるエピソードです。
L2011年1月。保育中の子どもが、SIDSではない突発性の病により心肺停止に陥りました。心肺蘇生と救急搬送を試みるも、元気な姿で親御さんんの元へ引き渡すことができませんでした。
これが過失による事故なのか、やむ得ない事態だったのか、誰にも判断できない3ヶ月もの間、ご遺族も保育所の他の保護者の方も、一切、一度として私たちを責めることはなく、逆に私たちを励まし、支え続けてくれました。
「発症は誰にも判らなかったし、発症したら誰も救うことはできなかっただろう」と、私は、事の終わった後知らされました。だったら、発症させなければ、いつも通り親子で帰る姿を見送ることができたのではないか、もっと予防の意識をもって子どもを見ていたら、もしかしたら、何らかの変化に気づけていたのかもしれないと、後悔の念が消えることはありません。
眼前で子どもの命が失われるという経験、親御さんの驚きと苦悩、保護者の方々の不安、そして、その当事者であるはずの親御さん、保護者の方々に支えられる体験をした私だからこそ、今、伝えられること、そして、伝えなければいけないことがあると信じ、日々の活動に取り組んでいます。
感謝を込めて。
救命法と安全・安心の保育の普及活動に生涯をかけています。